ARETECO HOLDINGS/CMOBANKの代表取締役/高木健作のスペシャルインタビュー第3回は自身の出生から様々な原体験、現在までの起業家としてのターニングポイントなどのヒストリーの全てを語って頂きました。
全5回の連載企画となっていますので、前の回をまだお読みでない方は是非、下記リンクよりVol.1から順番にお読みください!
- CMO BANK。それはマーケティングの真理を世に広げる日本一の場所。
- 日本の未来は、マーケターを求めてる。マーケターの価値がさらに高まる時代へ。
- 過去の失敗も成功も、すべて抱きしめて「いまここで、よく生きる」(←本ページ)
- まだ知らない。マーケティングがいかに可能性に満ち溢れているのかを。
- 今日も使命を果たす。CMO BANKの仲間が世界を前に進める、その日のために。
本質的な父、感性豊かな母。
2人の影響を色濃く受けた幼少期。
─ 一体どういう人がCMO BANKをやっているのかというところをもっと知りたいと思っていまして、高木さんの生い立ちをお聞きしたいです。学生時代はどんな子でしたか。
小学生の頃は、やはり落ち着きがなかったですね。自分で遊びを作るのがすごく好きで、当時遊戯王が流行っていたので自分たちで自作のカードゲームを作って遊んでいました。あとは自転車でチャリ部みたいなのを作って、自転車でどこまで行けるかチャレンジするチームを作ったり。自分で何かを一から作ってやるみたいなことが昔からとても好きでした。
またその一方で、いろいろ頭を使って考えたりするのも好きで、世界の秘密や頭の体操になる本をたくさん読んでいました。そのせいもあってか当時は、先生とかもめちゃくちゃ見くびってましたね。「なんでこんな世の中を知らない人に教えてもらうんだろう」といつも思っていました。
ある意味、あまり何も信じていなかったと思います。テレビも嘘ばっかりだと思っていましたし。ただ良く言えば、すごくクリティカル思考で、客観的に物事の本質を見ようとすることが多かったかなと思いますね。
これは両親の影響からも来ていると思います。特に父親がすごく本質的な思考で、頭も良かったです。かつ人生で一回も雇われたことがなく、とても自由な発想を持っていました。家にいっぱい本やパズルがあったり、ニュースを見てても「それ違うでしょ」と指摘したり。クイズ番組を見てても答えをすぐ言うとか、日頃からずっと数学を解くみたいなことをしていましたね。
一方で母親は正反対で、すごく感性が豊かな人でした。「難しいことはよくわからないけど、人として大事なことは守りなさい」みたいな感じで。僕が先生のことを馬鹿にしてても、漫画を読んでいても、何しててもあまり怒らないのですが、嘘をつくなど卑怯なことをすると怒られましたね。この両親の影響は結構色濃く受けてる気がします。2人が持つ要素をうまくバランス良く受け取ったなと。
「いつか死ぬな、自分。」
絶望の中で見出した、人生の価値観。
─ 高木少年は中学生・高校生になると、どうなっていくのでしょうか。
中学生の時に、今の生き方に影響を与えた“ある価値観”を見つける、一つの転機がありました。それは「なんで生きてるんだろう」とずっと考えた結果、「生きていることに意味がない」という結論に至ってしまったことです。
考えれば考えるほど、生きていることに意味がない気がしてしまったのです。その時はものすごい絶望感を味わいましたね。今自分が生きているのは刹那的で、宇宙的にも小さい。だから何を成し遂げても何をしても意味がなさそうだなと。死んでもあまり変わらないなら、死んでもいいんじゃないかなって、すごく思ったりしていました。友達と遊んでいても、何かおいしいものを食べた時も「これ意味ないんだよな」と感じてしまったり。究極的にニヒリズム(虚無主義)を味わう時があったのです。この時はかなりシリアスに受け止めていましたね。
「哲学者は自殺者が多い」と言われてましたが、絶対自分もこれだわと思っていました。いつ死ぬんだろうみたいな感覚があって。高いところとかに登ると落ちてみたいという気持ちに駆られるみたいな。落ちたらどうなるんだろうという好奇心に負けてしまうかもしれない、これはまずいなという気持ちでした。
このように「いつか死ぬな、自分。」という感覚を持っていたので、結構シリアスな状況でした。
そんな中で、たまたまソクラテスの本を読んでいた時に、今後の人生観を大きく変える言葉に出会ったのです。それは『よく生きる』という言葉です。この言葉を見た時に「これはめちゃくちゃいいな」って思ったんですよね。ただ生きていたら意味がないかもしれないけど、“よく生きる”という風に捉えると意味があるんじゃないかって。客観的には意味のない世界でも、主観的に意味をつけて生きていけばいいんだと、当時すごく思ったんです。
その時から“よく生きる”という言葉は人生の指標、今も持ち続けている根本的な価値観になりました。客観的には意味のない世界で、主観的にどう意味をつくって生きていけるかが大事、という価値観に変わったのです。そうすると全てのことに意味があるように感じてきて、むしろ人生楽しいなと思うようになりました。それ以降、考え方を180度反転させて、自分の中で意味ある人生を生きようという考えになりましたね。
人生初めて噛みしめた挫折。
どうしても1人では乗り越える事が出来ない高い壁と対峙して
─ 大きな転機となった中学・高校ですが、他に何か熱中していたことなどはありますか?
中学も高校もひたすら部活をしていましたね。テニス部で、とにかく部活が人生の8割くらいを占めていました。当時の僕はテニスがものすごく強く、中学生の頃も小さい世界ではありますがだいたいずっと一番。高校に上がる頃には1年生でありながら一番大会の成績が良く、スーパースターみたいな存在になっていました。そこで完全に「俺はいける」と舞い上がって、少し天狗になっていたかもしれませんね。
ですが高校2年生に上がる時くらいから、一向にうまくならないどころか、試合に出ても全然結果が出ない状態に陥ったんです。イップスのような状態で、試合に出てボールを打つのが怖いみたいな。でもどんどん物事は進んでいくし、乗り越えないといけないけど「乗り越えなければ」と思えば思うほどハマっていく感覚でした。
途中で辞めようとは思わなかったですが、結果的にそれを乗り越え切れず、自分の中では2年ぐらいずっと思い悩まされて、乗り越えようとしながら終わったという感じでしたね。高校3年生の最後の県大会で2回戦くらいで終わるみたいな。挫折を味わった瞬間でした。
ですがその“一人で乗り越えられない”という状況が、いろんなことを形成してくれたと思いますね。ずっと仲間と一緒に何かをしていて、支えられたこともたくさんあり「仲間はすごく大事」という感覚は今も残ってるなと思います。
そしてここで人生の8割9割をかけていた部活が終わったわけですが、急に何もなくなったので、このエネルギーをどこに向けようかと思いました。そこで次に目を向けたのが「受験」です。部活が終わってから受験の勉強を始めたんですが、部活で悔しい思いがあったというのがバネになったからか死ぬほど頑張ったんですよね。最初の頃は模試を受けたらことごとく最低の評価だったのですが、昔から根拠のない自信があったので「絶対大丈夫だ」と思って死ぬ気で勉強しました。
すると始めて2ヶ月くらいでだいたいどこの大学も行けるくらいにまでなったんです。当時神戸大学が良いと聞いたので目指していたんですが、2・3ヶ月くらいしたらもう行ける気がすると思ったんです。なのでそれよりも良い大学ないかなと調べたところ「大阪大学」があることがわかったので、そこを受験しました。結果は、合格。この成功体験が「本気出せばなんとかなる」という、今も持っている考え方を形成するものになったと思いますね。
“アウトローなやつ”を集めよう
現会社の創業メンバーが出会った場所。
─ 高木さんは大学の頃に起業をしたと聞いていますが、それまではどのような大学生活を送っていたのでしょうか?
僕の中で「大学は人生最後の夏休みだ」と思っていました。大学生が人生で一番楽しくて、その後の人生はつまらないと。ですから今が人生のピークだから遊び切ることが大事だと思い、とにかく遊びにフォーカスを当てていました。
ただ、はじめ大学でもテニスをしようとテニスサークルに入ったのですが、めちゃくちゃつまらなかったんです。サークルに入ってる人がみんな面白くないなと思って。コールで騒いで飲んで楽しそうにしてるけど、誰も面白いこと言わないし、なんとなく飲んでる人が多いなと。なので、これはダメだ、ここにいたらまずいと思ってすぐ辞めたんですよね。
こんなの大学生おもしろくない、夏休みじゃないと思ってたら、周りを見渡したら同じようにイマイチ学校に馴染めていないアウトローな人が結構いたんです。そこで「アウトローな人を集めて、ほんとにおもしろいやつ作ろう」と考えました。
基本的にアウトローなやつを集めるというコンセプトだったので、エッジの効いた人が集まってきました。今の会社でもエッジが効いていて変わってる人、ちょっとアウトローな人を集めるという感覚がありますが、この時から来ている気がしますね。アウトローなやつらが集まるとおもしろいんです。
そこで一からフットサルのサークルを作ったのですが、その時のメンバーが今の会社の主要メンバーになっています。このサークルはすごく楽しかったですね。最初5人から始まって、最終的に5〜60人まで増えました。
メインの活動はフットサルですが、裏の顔は麻雀でした。「100時間麻雀」とかしてましたね。誰か一人病院に行くくらいまでやり切ろうみたいな(笑)。
「今日から俺らは会社をする」
1LDKのマンションで、起業を決意した日。
─ そこからどういった経緯で起業することになったのでしょうか。
もともと中学校の頃から将来は会社をしようとは思っていましたが、まずはどこかのベンチャーに3年ほど入って、学んでから起業するつもりでした。就活を開始したのは大学3年生の冬、12月ぐらいですかね。周りが就職活動をし始めたので、人生最後の夏休みが終わるのかと少し嫌な気持ちに。でもさすがにやるかということで就活を始めました。
そこでエントリーシートを書いたり面談に行ったりしていたんですけど、話を聞いてると自分でやった方が早いんじゃないかなと思い始めてきたのです。
今でも覚えてるんですが、リクルートかどこかのエントリーシートで「1枚で自分を表現しなさい」という項目があったんです。普通は写真を貼ったりするのですが、僕はイラストレーターやフォトショップを駆使してめちゃくちゃすごいものを作ったんですよ(笑)でも出す瞬間になって「俺こんなことしてる場合なのかな」とふと思ったんです。「これを出して受かって、会社に入ったら、そのまま目の前に敷かれたレールに乗ってしまうんじゃないか…ダメだダメだ」と思ってそれを捨てて「よし、起業しよう」となりました。
今考えると何で悩んでいたのだろうと思っていますが、大学を休学して起業してる人が当時は周りに誰もいなかったので、自分的には勇気のいる決断でしたね。
そこからまず、オフィスにもできるように1LDKのマンションを借りて、友人2人と住み始めました。リビングに机とテーブルを置いて、もう1部屋に布団3枚敷いて、パソコン買って並べて。そこで3人決まった日付に集まって「今日から俺らは会社をする」と。何をするか決めようというところから始まりましたね。
未来の選択肢をくれるもの
それが、マーケティング。
─ 起業して「マーケティングが重要」と気付いたきっかけは何でしょうか。
起業をした時に思ったことがあります。それは「自分が選択肢を持てること、というのがすごく大事」だと。10年後に自分がこれをしたい、あれをしたいと思った時に、選べるようになりたいなと思ったのです。つまり、人生の豊かさ、よく生きる度合いは選択肢で決まると当時思っていたわけです。
そしてその未来の可能性の幅、選択肢の幅を多く持たせてくれるものがマーケティングではないかと思っていました。なのでとにかくマーケティングを極められることをやる、という前提でどんなビジネスをしようと考えていました。
このようにマーケティングが重要と考えはじめたのは、最初に読んだジェイ・エイブラハムのハイパワーマーケティングという本がきっかけだと思いますね。この本を読んだ時に彼が言ってることは間違いなく正しいと思いました。たとえば「売上=購入単価×購入人数×リピート」という数式は、どんなビジネスにおいても当てはまるなと。
今思うとジェイ・エイブラハムの影響をすごく受けたと思います。彼のマーケティングの学校の販売などもしていましたし、先輩経営者からお金を出してもらって、彼の100万円する合宿に行かせてもらったり。彼についてかなり勉強していた気がします。
またマーケティングに関してはいろんな先輩の経営者に教えてもらいました。インターネットビジネスをしている経営者に教えてもらいながらアフィリエイトなどをやっていた時期もあります。それに加えて関西で実業をしている経営者の方はみんな理念やビジョンが大事だということを先輩後輩の関係で教えてくれる人が多かったですね。そういった人たちに学生起業家として会いに行くとすごくかわいがられて色々教えてくれました。こうして考えると、どちらのタイプの経営者からもマーケティングを学べる機会があったというのがありますね。
思いつくこと、全部やる。
月15万円から、半年で月400万円の売上に。
─ ではマーケティングだと決めて、3人で同居して、どう仕事をしていったのでしょうか。
最初は何もできないので、先輩の経営者などに「ホームページを作らせてください、自分たち頑張るんで」ということを伝えて仕事をもらっていました。発注してもらったら作れる人を探して、作ってくださいとお願いするみたいな。ディレクションで間に入りながらマーケティングを学び、知恵を絞って様々な企画もしていました。
起業した時の大事な考え方として思いつくこと、できることを全部やると決めていました。今でも覚えているのは3人で就活生に就活マニュアルを売ったことです。目標は明日の夜までに売ること。メンバーの一人に明日の夜までに教材を作ってくれと、もう一人に今夜までにコピーを書いてくれと。俺は決済とか全部できるようにするから明日の夜までに絶対に売ろうみたいな。実際めっちゃスピード感早くやって売ることができましたね。
こうしていろんなことをやっていく中で、一気に売上が上がりブレイクスルーできた出来事がありました。それは、あるきっかけがありメディアを300万円くらいで買収したことでした。その時は300万円もお金がありませんでしたが「これを買えばすごく良い気がする」と思ったんですよね。当時の日本の独特の文化から、日本では流行らないと言われた領域なのですが、僕はいづれ日本のネットリテラシーや常識も世界標準になるだろうと、そしてもし流行ったらワンチャン来るなと。
それで先輩の経営者にお金を出してくれないかと相談しに行きました。そしたら半分支払うとお金を出してくれたんです。その時の会社の売上は月15万円くらいだったんですけど、そのサイトを買ってめっちゃ改善したら、半年くらいで月400万円になったんです。社会に新しい文化が出来、ユーザーがどんどん増え、そのユーザーがまた文化を広げる。まさに大きなトレンドに乗れたわけですね。
今までBtoBでコツコツ頑張っていたのが、そのサイトの運営を通して、仕組みややり方1つでビジネスをすることが出来ると気付き「これはすごい」と。一つのブレイクスルーでしたね。そこからマーケティングをBtoBではなくて、どんどんメディア事業など自分たちのビジネスに変えていきました。
会社の売上は億規模に。でも、何か違和感が…
─ その勢いのまま順調に会社の売上は上がっていったのでしょうか。
先ほどのメディアはとても順調でした。1つうまくいく道筋がわかったので、その上にシステムを作ったり広告を出したりして、どんどん収益が上がっていきました。僕たちのメディアの広告を高く買いたいという会社も増え、会社の売上は億規模にまで上がっていったのです。
そしてこの頃に、会社をシンガポールに移転しました。2013年の5月でしたね。その理由は10年後を考えた時に世界を相手に戦えるようにならなければいけないと感じたからです。今後さまざまな技術が想像もつかないスピードで発展し、世界がよりフラットに繋がっていく中で、世界で戦える力がなければいけないと思ったのです。10年後にどのような未来が待っているかはその時はわからなかったですが、世界に視野を広げるという意味では当時の会社にとってベストの選択をしたなと思いますね。
しかしここで、会社としては良い方向に走っていたのですが、僕の内面の部分で人生における一つの大きな転機があったのです。
当時の僕は「ビジネス=ゲーム」という考え方を持っていましたので、いかに攻略法を見つけて、うまくゲームに勝って数値を上げるかが重要でした。なので毎日アナリティクスを見て、数値が上がっていれば楽しくて人生幸せだし、下がっていたら気分が悪いし不幸せみたいな感覚だったのです。
「今日はハイスコア更新できるかな」と毎日考え、毎月PL(損益計算書)の数値が上がっていれば嬉しいし、下がっていれば悲しいみたいな。ビジネスはゲームだし、人生はポイントみたいな発想だったんですよね。
ただそれをやり続けていると、だんだん面白くなくなってきたのです。会社の売上が上がり人生のポイントとしては上がっていってるはずなのに、やってもやっても面白くない。アナリティクスを見ても何も感じなくなってきて。「あれ、何したいんだっけ」と思うようになってきたんですね。インターネットビジネスを攻略できるようになったけど、これでいいんだっけと。
やる気を失うというか、いまいちエネルギーが出ないみたいな。今では考えられないですが1ヶ月くらいひたすら漫画を読んでる時期もありましたね。その頃くらいに、事業をIPO直前のとあるベンチャー企業に売却することになりましたが、契約書を結んでも全然嬉しくなかったんです。「数値を上げて売却してうまくいっても、こんなもんなのか」と。
この時、人生のポイントをあげていく方向に、大きな幸せはないんだなと気がつきました。結果よりも過程が大事だなとも思いました。そう思っていたら、その売却の入金日に運営していたメディアが炎上することになり、売却先にも迷惑をかけられないため、「一度、売却は白紙にしてもらっても大丈夫です。」と伝えて、売却の話はなくなりました。この時に、人生はポイントじゃないなと気がつけたのは、大きな学びでした。
価値観を変えてくれた1年間。
ゲームの攻略より“意味のある人生”を。
─ その後、高木さんはDeNAに1年間行かれたと思いますが、そこからどのように今のARETECOの創業やCMO BANKの事業に繋がっていくのでしょうか。
株式会社DeNAに行こうと思ったのはゲームの攻略やポイントを稼ぐという観点ではなく、もっと自分のやりたいことや意味のあることをやろうと考え「あの規模の会社は何をしてるのか見たい、勉強したい」と思ったからです。自分が今後のキャリアを考え直すのにすごく大事な時間になるかなとも思っていましたので、1年間DeNAで時間を使うことにしました。起業から5年目くらいですかね。
そしてDeNAで色々勉強させてもらいながら「今後の人生をどうしたいか、どうあるべきか」と考える時間をもらったことで、改めて仲間の価値や、自分のやりたいことをやる大切さに気づくことができました。そこでDeNAで得た経験を元に、4年前にARETECOを作ることになったのです。
そこで色々やりつつ、改めてビジネスが役割分担で、やりたいことを極めていくということがビジネスだという価値観に気づいたわけです。すると目の前の仕事や事業がすごく意味あるものに思えてきました。ポイントを稼ぐみたいにやっていた時とは全然違うモチベーションでやれてる感覚があって。
そうなってくるとマーケティングがゲームの攻略手法になり、やりたいことや意味のあることをやるための“手段”として意味のあるものに思えてきたのです。そういう価値観とか心境の変化があったというのが今のCMO BANKの事業につながる大きな変化かなと思いますね。
数字はとても重要なものですが、以前のように上がり下がりを気にすることがなくなり、それよりもそのビジネスに関わる人の強みが活きているかとか、意味あるものになっているかを気にするようになりました。客観的には意味があるかどうかわからないですが、その人にとって主観的に意味があるかどうかというのはすごく大事になっています。それが今の理念やビジョンにも繋がっていると思いますね。
そして2019年の3月に自らの環境を大きく変える決断をしました。2013年から6年間シンガポールに住んでいましたが、ここで日本に帰国することにしたのです。様々な要素を総合的に鑑みて意思決定をしたのですが、関わる会社も10社以上、社員の総数も100名を超えるような規模感になり、さらに大きな目標を目指していくためには帰国すべきだと考えたからです。シンガポールに残り続けるメリットもたくさんあったのですが、よりチャレンジをしていくためには日本を拠点にすべきだなと。
また起業してから10年が経ち、年齢も30歳となり、人生において節目だと感じたのもあります。この日本帰国をきっかけに起業家として改めてスタートラインに立って、これまでは練習で今からが本番だと思い、気を引き締めてやっていこうと決意しました。
起こるべくして起きた2度の炎上
価値観の大きな変化がありました。
僕は、過去に関わった会社、事業において2度の炎上騒動を起こし、社会から大変なお叱りを受けました。ですが、この騒動が今の僕を語る上で、最も大切な学びや気付きにつながっています。自分自身を語る上で避けて通れない話だと思いますので、過去の炎上騒動について僕なりの考えを話していきたいと思います。
先に結論からお伝えすると、当時の自分はあまりにも未熟で、これらの問題は起こるべくして起こったと考えています。炎上後は、起こした問題に対してインターネット上でもたくさんの方から批判を頂き、精神的にも追い込まれて、自責と反省をする日々を過ごしていました。
ただ、正直にお伝えすると、当時の本当の気持ちとしては「世の中は揚げ足を取ってくる。そんなに悪いことをしていない。」というような自分を正当化するような考えが少しはあったように思います。
3年以上の月日が経った今だからこそ、当時の自分の未熟さが身にしみてわかり、これらの問題でご迷惑をおかけした方々には大変申し訳なく感じています。
未熟な点はあげればキリがないほど、ほぼ全ての点で至らないことばかりだったのですが、一番は、『事業に対しての姿勢や価値観』があまりにも未熟だったと感じています。
事業というものは世の中に価値を提供してこそ意味があるはずなのに、事業をゲーム感覚で捉えており、「事業は利益を出すことが正義。勝てば官軍。」というような思想を持っていました。
そのような姿勢で事業に取り組んでいたため、顧客のためや社会のためという発想よりも、いかにして利益を上げられる仕組みを作れるかというようなことばかり優先して考えていました。私が取り組んでいたメディア事業でいうと、とにかくPVをどうしたら集められるかということばかりを考えて、GoogleやFacebookのアルゴリズムの研究や、コンテンツ作成の効率的なオペレーション作りなどに奮闘をしていました。
このような事業に対する姿勢でサスティナブルな価値ある事業が生まれるはずもなく、ゼロサムの中でアービトラジーを取るような事業しか生むことができず、その利益追求の工夫の果てにモラルハザードが起こり、結果的に炎上するような結果になりました。
当時の私は、会社の経営者として・事業を立ち上げる人間として、根本のスタートラインから考え方が間違っていたのだと実感しています。
炎上してから3年以上の月日が経過して、未熟だった考え方もずいぶんと変化をしました。
事業に対しての価値観は、「事業とは世界規模の役割分担で、それぞれがそれぞれの強み(卓越性)を生かしてこの世界に価値を提供するもの」というふうに考えるようになりました。いかに自分の強み(卓越性)を生かして、世界に求められていることを提供するかという姿勢が大事だと考えています。
企業として利益を追求することはもちろん大事だが、利益は一つの指標でしかなく、利益が目的化してはいけないとも思えるようになりました。
事業を作る基準も「本当にこの事業は世の中に求められているのか?」「自分は心の底からこの事業をやりたいと思えているのか?」「この事業をやるのは本当に自分でないとダメなのか?」といったことを大事にするようになりました。
また、ARETECOはマーケター集団として、クライアントの商品の販売促進をするのですが、その商品に対しても「本当にその商品を自信を持って広げられるか?」といった指標を大事にするようにしています。担当者がその商品を好きになれるものを取り扱うようにしています。
過去に起こしたことは無かったことにはできません。
これらの出来事からいかに学び、成長をして、今、この時により良い事業をしているか、これからさらにより良い事業をしていけるかが大事なのではないかと思います。
炎上したというのは、言い換えると、世間からお叱りを頂いたということだと思います。
そのお叱りからたくさんの事を学ばせて頂きましたし、たくさんの気づきがありました。
今の自分があるのはそのおかげだと思っており、炎上した出来事に対して感謝してます。
これから、ARETECOを偉大な会社に成長させて、マーケティングという強み(卓越性)を生かし多くの事業を立ち上げ、その事業を通して世の中に還元をしていけたらと思っています。
過去の失敗も成功も、すべて抱きしめて
「よく生きる」人生を送ろう。
─ 最後に、CMO BANKを運営する高木さんが大切にしている価値観を教えてください。
中学校の頃から「よく生きる」という根本の人生観があり、それを元にテニスをやったり受験もして、サークルも作りました。それぞれ自分の中で全部どこかで、よく生きられているのだろうかという発想の元、そこに時間を使って、ビジネスの世界にも入りました。
そしてビジネスの世界に入った時に数字が大事だと思いすぎて、それにとらわれて自分の中であまり幸せじゃない感覚も味わいました。そういう状況の中でDeNAに入って改めて「自分が本当によく生きるってなんだろう」ともっと考えた上で会社をしようと思ってARETECOを創業しました。
創業してからも自分の中でよく生きるという価値観をどんどん変えてきています。創業した当初は仲間が大事なので、自分たちがもっと楽しいことをしようという感じでした。ただ1、2年くらいやっているとただの自己満足で終わってくることに気づいて限界を感じたのです。飲み会とかみんなでワイワイしてすごく楽しかったんですけどね。
自分たちが楽しいだけだと人生イマイチだと思ったのです。もっと広い目線を持って、自分の力を活かして、事業を通して社会に貢献する。そこに目が向いた時に、より人生が豊かになる、よく生きられてるなと感じたのです。それがCMO BANKにも繋がっていますね。
このようにしていろんな失敗をしながらも、いまここで、よく生きる。その価値観を大切にして人生を送っているというのが僕のこれまでのストーリーです。
高木健作 プロフィール
株式会社ARETECO HOLDINGS 代表取締役
株式会社CMO BANK 代表取締役
1988年兵庫県生まれ。大阪大学 経済学部(中退)
大阪大学在学中にマーケティング支援事業で起業。2013年にはSingaporeへ移転。月間5,000万PVメディア事業立ち上げ。
その後、旅行メディアを株式会社DeNA、美容メディアを株式会社ベクトル(子会社)へとそれぞれ事業売却
現在起業家 兼 エンジェル投資家 として11社の創業に携わり、2019年3月より株式会社ARETECO HOLDINGS 代表取締役に就任。同年、株式会社CMO BANKを立ち上げ代表取締役に就任。